『ゆとりの家』建前2日目です。。
一般的な家づくりなら建前は1日で済むところ昔ながら家づくりでは2日~4日ほどかかります。おおよその山場は、2階の床梁(胴差し)が納まるまで。
柱に梁や土台や差し鴨居などを差してつくる造りは、2階の床梁(胴差し)が納まるまでがもっとも手に汗を握ります。。通し柱の間に納まる、梁や土台や差し鴨居の長い差し口(ホゾ)が納まりにくくなるからです。でもそこが見せ場
ひとたび納まればそう簡単に抜けることがない事を体感で感じます。スポスポと簡単に納まってしまうようでは=抜けやすい、という事。これ道理の世界です
そうなるとやっぱり「抜けやすいから金物で補強する」という発想になってしまいがちです。昔ながらの家づくりをやっていると、あまり金物を必要としないな、という実感が沸いてきます。金物をつかうほうがずっと手間も省けて便利ではあるのですが・・、でも金物に頼らなければ心もとないような木の家は・・・やっぱりどうでしょうか
おおよそ梁が納まったころ、少し浮かしていた骨組みをさげました。ミシミシと下がっていく作業は迫力そのもの。それと同時に引き締め直す作業をおこないます。すこし緩めにして差し物が入りやすくしていたのを締めなおす作業です。隙間があいていた差し口が徐々に縮まっていきます。聞こえは簡単なようだけど、この作業に半日ほど。。
ミシミシとかギシギシとか木の音を聞いて、建物の揺れ具合、手に伝わる振動、柱の粘り、梁の粘りを体感していると、なんとなくですがこの家の粘り強さというものを感じます。それは地震がきた時にこの家がうける衝撃をどの程度この家がかわすかということまでなんとなく感じられてきます。
こういった積み重ねが設計にも活かされていくことになります
これと同じように長い年月を延々と大工さんたちは体感で、感覚で、木の家をつくってきたのでしょうね
それは決して「根拠のない技術でやってきた」という事ではなく、蓄積された経験と研ぎ澄まされた感覚が木の家づくりをしっかりと支えてきたという事でもあります。
感覚というのは素晴らしい力であり、私たちのコンピュータ技術をもっても未だその足元には及ばないとされています。ある分野では数ミクロンの精度での物づくりには、熟練の職人が長年育んできた指先の感覚ぬきには実現できないと言われます。常に違う環境下や要求に、そして生きた部材・変化する部材を使う時、そこには数値化されないと答えに出せないコンピュータ技術では立ち入れない領域があることを伺わせます。
先人たちの感覚は、今の私たちの感覚より遥かに上回っていたことを、先人たちが遺した物から感じる事が出来ます季節の変化を繊細に感じ、自然を感じ、自然の素材・自然の摂理に精通する暮らしのなかで物づくりがされてきた時代です。経験という感覚の積み重ねのなかから自然の道理を学んで智恵にしてきたのが先人たちです
今はあまり感覚を重要視していない時代でもあります科学技術をもって証明されないものは非科学的なもの=価値がないものとして低く見下されている時代でもあります・・
でも先人たちは科学技術のなかった時代に、自らの体感や経験の積み重ねで試行錯誤し、理に叶った素晴らしい物を生み出してきました。
こうやって昔ながらの家づくりをとおして、設計者の私自身もひとつひとつ感覚を磨いているような気が実際に昔ながらの家づくりをする以前から言うと感覚が鋭くなってきたことを感じます。それは木組みだけに限らず、土壁の柔らかくて優しい感覚や、自然の囁きからも学んでいます。
そして自分たちの感覚が磨かれていけばいくほど、その上にはまだまだその上があるということを思い知らされるこの頃
そうやって先人たちも成長してきたのかなと・・、いつもながら昔ながらの家づくりを通して先人たちの研ぎ澄まされた感覚に想いを馳せてしまう私です
特にこの建前は、私たちにとっては(職人にとってもですが)ワンステップアップのための貴重な機会と言えます。
さて、話が少しそれましたが、
2階の柱を立てつつ貫をいれていきます。差し物類がはいっていると、貫もちょっと入りにくいですね。
下屋や出窓などを取り付け、そしていよいよ2階の小屋組みに
が・・ここで2日目終了
この夕方近くになると、大工さんたちの掛矢を打つ力も限界に
とにかく差し口が半端でなく多いため、この時間帯は残された力で掛矢を打っているという感じ。本当にお疲れさまでした。明日は雨のようなので一休みをして、建前3日目を迎えましょう
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