地鎮祭。。

 

『ゆとりの家』につづき、『風薫る家』も地鎮祭を執り行いました
天気予報では雨の予定だったにもかかわらず、やっぱりついている!
お天とさまも味方についてくれての地鎮祭となりました。
いつも地鎮祭は心があらたまります。
カタチではなく、やっぱり目に見えない世界で、私たちを見守っていてくれている存在=神さまがいると私は思うから。。
人間はひとりでは生きられない。他とのつながりがあって生かされている存在です。
『他』とは人間だけの狭い世界ではなく、土であったり、雨であったり、木々や草木や、そこらへんに何気にいる虫たちだったりします。また私たち人間が理解できない世界、まだ認識されていない世界で多くの万物がつながりあって働いていて、そのどれもが欠けてはいけないぐらいこの地球という世界は調和しているのです。
そんなまだ人間が未解明な知らない世界があるということを、先人たちは目に見えないから否定するのではなく敬ったのだと感じます。それを八百万の神といった表現で呼んだかもしれません。
そんな気持ちのあらわれが地鎮祭であったり、大地の目に見えない生き物たちにさえ、心つかったりしたのでしょう。。
だから地鎮祭では、心あらたまります。。
そんなつながりの大切さを感じるから。。

さて、今回の鍬入れの儀。
神事用の木で作られた鎌と鍬と鋤を忘れてしまって
これでは式にはならない~

っと焦ると同時に
農的な暮らしをする私たちの車には、あたりまえのように鎌と鍬と鋤(スコップ)がいつものごとくありまして うまく出来ている!
神主さんは何ら問題ないとの事なので、それを使って鍬入れの儀となりました
なので、鍬入れの儀はなんだか、本格的

私設計者は、鎌(かま)で草刈の真似事を3回行います。
稲は昨年わたしたちが収穫した稲穂を準備しました。
そして『本物の鎌』で刈り取りました。

続いて、建て主さんは鍬(くわ)で盛砂をすき崩す真似事を3回行います。
なんだか祭壇にむかって『本物の鍬』をもって拝礼する姿は、ちょっとユーモラスです。
盛砂を崩す光景も、なんだか本当らしくて良い感じ

最後に、鋤ではないけどスコップで、棟梁が盛砂をすき直す真似事を3回行います。
ほほ、無事終了

神事用の木でできた鎌や鍬や鋤はないけど、これでOK!
神事は本来カタチではないから、毎日つかっている道具で心があればOKなのですね
神様は、それが神事用ではないからとはお怒りにはなりませんからね~

なんだか心にのこる地鎮祭となりました。。

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